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初めてのデートとトイレ [青春時代]

昭和57年西暦では1982年。夏の初めだったと思う。
当時、初めて小学校の担任になった。4年3組。
つくばにあるその学校は、急激に子供の数が増えて
学級増になり、非常勤の期間付講師になったのだ。

元気一杯の子供たちに囲まれて、新米先生は、夜
遅くまで教材研究をして、一つ一つの授業を精一杯
やっていた。

同僚にやはり、期間付の講師で短大を出たばかりの
女子がいた。年は2つした。今年で50かな、立派な
おばさんで、孫などいるかもしれない。

その娘と初めてデートしたのが、まだ、学園都市の木々も
小さくて、喫茶店の建物だけが目立つようなモールの店
だった。

何を話したかは、よく覚えてない。たぶん、先生になった
ばかりの二人は、受け持ちの生徒のことや、授業の悩み
など、わけの分からないことを話したんだと思う。

軽食を食べて、お茶を飲んで、当時流行の「転校生」
なんて映画を見に行こうなんて店を出ようとしたら、彼女が
「トイレ」。

なかなか、戻ってこない?
オカシイなぁなんて思っていたら、店の奥のほうで悲鳴が。
用を足し終えて立ち上がったら、ドアが開いて、男の人に
見られた。って、大変じゃん。

でも、恥ずかしいのが一番らしく、ともかく、僕の腕を思い切り
強くつかんで、外へ。勿論、トイレでの出来事は、帰りの車の
中で聞いたんだけれど。

だから、じゃないけれど。出先でサテンとかに入るといつも、そんなこと
があったと思い出す。もう、その彼女の顔も思い出せないくらい
遠い昔の思い出なのに。

今日は、水戸の三角ビルに請求事務で出かけた。帰りに
ファミレスで、食事している時に思い出した。
とくに、問題なく仕事を済ませて、午後からは、特殊寝台と車椅子
のレンタルの手配。

早めに家に帰ると、奥さんの友達が子供を3人連れてきていた。
やっぱり、三番目の子のことが気にかかる。
どうして、受け狙いやどうすれば大人が喜ぶか分かっているんだよね。

と、家内と友達が帰ってから話した。
今晩も夜の散歩はできました。明日もやれば三日坊主じゃないね。
頑張ります。
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お静かなお盆で [青春時代]

8月になり、はやお盆の14日です。
今年は、新盆は少ないなぁと思っていましたが、12日に
恩師の小島先生が亡くなってしまい、お盆明けには通夜
です。

今から、30年前の僕は、就職もしないで暢気に中学校の
プールの監視員なんかをしていた。
当時は、ジムやスイミングクラブなどなくて、水泳は学校の
プールだけだった。

今では、流れるプールやいろんな施設ができているけれど、
当時の村には、中学校のプールしかなかった。
教育実習もした関係で、教務主任の先生から頼まれて、
8月一杯はアルバイトと水泳部の後輩の練習に付き合った。

あれは、お盆が明けた17日だったかな。いつものように職員室に
鍵と日誌を取りに行くと、見たことのある丸い顔の男の人が、
教務主任の国府田先生とはなしていた。

「おはようございます。日誌と鍵、取りに来ました」と職員室の
入り口で挨拶すると、
「あっ、S君。この人誰か分かるかね?」と国府田先生。
「えーっと、誰でしたっけ?」
「まあ、無理もないか。小学校の小島先生だよ」
「あぁー、そうでしたね」

10年も会ってないんだから、分かる分けない。
でも、言われれば分かった。そう、ずいぶん怒られた。
先方もよく僕のことは覚えていたらしい。

「実はね、9月から、君に臨時で来てもらいたいそうなんだけど」
「えっ、どういうことですか」
「だから、先生やってみないかって」

自慢ではないけれど、教育実習では散々で、数学の先生には
「何しに来たんだ」といわれるくらい出来は悪かったほうなので、
何で?と思ったのだけれど。

小島先生は「いや、君ならできる。それは、俺が分かっている」
ときっぱり。
もともとは、教師の免許が取れれば位だったんだけど・・・。

この出会いが、というかこれがきっかけで大変な思い良い思いもする
ことになるんだけれど。本当にお世話になりました。
それから、時は流れて、先月まで担当ケアマネとしてお世話
させていただいていました。

奥様を3月に亡くされていて、今年は新盆までは頑張ってほしい
と思っていたのですが、とてもとても残念です。
しかし、先生に教わったことはたくさんあります。

とても、気風のいい人でした。男気があって面倒見が良く。
先輩には煙たがれたけれど、筋は通す人でした。
後輩は、みんな慕っていました。

近所の悪餓鬼はみんな、先生に殴られました。でも、不思議に
痛くもなかったし、先生を恨んだりもしなかった。
いいことはいいと、すごく誉めてくれて、何かよく分からなかった
けれど、小学校で頑張れたのもこの先生のおかげです。

教師時代には、期待に応えられなかったけれど、今の仕事をして
いることが分かった時には、本当に喜んでくれました。
しかも、担当になるなんて・・・。出来すぎかな。

ありがとうございました。小島先生。
安らかにお休み下さい。また、あちらでもお会いしたいです。  
合掌。
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昭和の日 [青春時代]

晴天に恵まれた今日は、実家の雨樋を修理しました。
家内は、朝一番で仕事に行ったのですが、予定が変更に
なったので、11時には出発。いざ、ホームセンターへ。

品物は以前に確認してあるので、雨樋3本に留め金など
買いました。自宅で洗濯物を干し終えた家内と実家へGO。
家内は、取り付け助手です。

この前の月曜日に兄から依頼された雨どいの修理は、
それはそれは古いもので、ブリキでできています。建ててから
かれこれ半世紀以上過ぎている家ですから、一度くらいは取替え
たかも知れませんが、まあ、ボロボロです。

特に壊れているところを修繕しましたが、やってみるとなんか変。
「全部取り替えたほうがいいよ」と家内が提案するので、また、
ホームセンターへ。お昼を過ぎていたので「蕎麦」を食べてから
買い物。残りの樋を3本、留め金4本、つなぎ目を3本。

引き返して、取り付けてみると、「あれ、長さが合わない」切らないと
いけない。ウーン、もう一度、ホームセンターへ行って、つなぎ目と
留め金を買って、またまた、引き返して、やっとのことできました。

「試しに、お水を流そう」と家内が言うので、実験、無事に流れました。
ということで、やっと、県道側は終わりましたが、南側とかは?まあ、
今度だね。

自宅に帰って、ケント君と散歩してお風呂に入りました。
夕方は、家内の実家に東京のお姉さんが来ているので送って
行きました。すごい、夕立の中。あの雨樋は大丈夫かな?
私は、夕飯だけいただいて自宅に帰りました。

少し、テレビを見てたら眠ってしまいました。起きると、NHKプレミアム
103で、「昭和のヒットメーカー」という番組をやっていました。今も、それを
横目にブログを書いています。

そうか、今日は昭和の日ですからね。昭和はすごい時代でしたね。
戦前は、軍国主義というか資本主義の初期の兆候期。
戦後は、すべての価値観が逆転した激動の時代でした。

中でも、終戦後の様子はどうでしょうか?
今の東北の各県の惨状は、まったくのあの焼け野原と一緒ですね。
これからの、日本は、あの戦後の状況から立ち直ったように、国民
総出でがんばらなければなりませんね。今日も国会で渡部さんが
おっしゃっていたようにね。

ところで、「昭和のヒットメーカー」の番組の中でもありましたが、
キャンディーズのスーちゃんこと、田中 好子さんが亡くなりました。
私たち世代のアイドルですよ。「本当に私たちは(私も)幸せでした」

あの時代、あの時、あの曲。楽しかったなぁ。
一番、健康的で元気そうだったスーちゃんがねぇ。
とても、残念です。しかし、長く病気と闘っていたとは?

ご冥福をお祈りいたします。

私の同級生でも同じように太陽のように明るく元気な人が
まあ、僕たちのマドンナ的存在だったのですが、やはり、乳がんで
40代早々に亡くなっています。

判らないものですねぇ。本当に健康そうだったのにねぇ。
今年はあちらは大変に混雑していると思うのですがね。
良い人は帰してもらえませんかね。

でも、私たちもそちらに行ったときには、楽しい歌がまた聴けますかね。
いろんなことを考えさせられた、昭和の日でした。
明日は、晴れれば庭の草取りだ。ウーンとがんばれるかな?
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オールスター戦 [青春時代]

時は昭和から平成に変わったばかりの頃、私は田舎に
帰っていた。男子カジュアルストアーのチェーンストアを
辞めて、新たな道を探していた頃だった。

会社を辞めた理由はいろいろとあるが、小さな企業の
親族らの経営体質や全国どこに転勤になるのか分からない
不安定な生活が嫌になったのが大きな理由ではあった。

しかし、失業していることには変わりなく、不安な毎日だった。
当時は、結婚もしていたので、嫁の実家に同居することも一つの
選択肢ではあったけれど、一からやり直しの覚悟で新聞店に
専業として働き出した。

春にこちらに帰ってきたのだが、勤務地はここよりは北部の勝田市
現在はひたちなか市というところであった。
新聞店の専業の勤務は、朝の2時半くらいから始まる。

前日に器械で仕込んだチラシの束を本紙(主に取り扱う新聞)に挟み込む。
5千部から6千部はあるので、大変な作業だ。それを15区くらいに分けた
地域ごとに、250部から450部くらいに分ける。

それを、スーパーカブの前籠と荷台に積んで、一人で2区域から3区域
配達する。4時にスタートして各戸へ配達して、終わるのが6時。
雨の日も風の日も嵐の日も、休刊日以外は必ず配達する。

当時は、主婦や学生のバイトに日立関係の工場で働く男の人も何人か
手伝いはあったけれど、専業は配達が終わっても未達(配達されなかった
家)の処理もあったり、新聞が汚れていたなどの苦情の対応で、午前9時
までは、終われない。

当番制にして、居残り以外は7時にあがれるようにしたり、事務のおばちゃん
が、行ってくれたりしたけれど、結構辛かった。
一月のうちに、古紙回収の日が一日あって、日中寝れないこともあったり、
集金が終わらないで、夜に訪問したりすることもあった。

給料は、大体30万円くらいにはなったけれど、大変でした。配達のほかに
拡張と言って、新規の購読者を探したり、縛りと言って継続をお願いしたり
やることは山ほどある。
まあ、やればやったほど給料にはなるのだけれどね。

あれは、丁度7月のプロ野球のオールスター戦があった日だった。
その家の人は、夜勤とかあってなかなか集金でも会えないで2ヶ月から
3ヶ月溜まってしまうやっかいなお客さんだった。

その日は、たまたま帰宅されていて、ビールなんか飲んでオールスター戦
を観ていたみたいだった。
「こんばんわ、○○新聞です」
「おぅーっ、なんだ新聞屋」
「おめー、どっちが勝つと思う?」
「いゃー、わかんないっす」
「さうか、うで、なんかようか?」
「あのー、集金なんですけど・・」
「なにー、今頃来て何だぁおめー」
「ゆっくりされているところ、本当に申し訳ないんですが・・・」
「しぁないなぁ、いくらだ?」
「えーと、3ヶ月で7200円です」
「馬鹿野郎、俺がそんなに貯めたかぁ?」
「えっ、あっ、はい」
「今日は、そんなにねぇよ」
「いくらでもいいんですけど・・・」
「そうか、じゃぁ、一ヶ月分だけ払うわ」


みたいな、感じでした。なんか機嫌悪そうになってしまって。
3ヶ月にもなったのは、こっちのせいばかりじゃないのに・・・。
と思ったなぁ。

その時は、もう誰もが遊んでたり休んでいる時は働きたくない
と思ったなぁ・・・。でも、結局はそんな仕事にはなれないのだけれど。
あれから、およそ20年ですかね。

人並みの生活が送れているので、今年もテレビでオールスター戦を
観れるけれど、その当時のことが思い出されるとともに、地上波では
プロ野球の試合がほとんど無くなってしまった今を、寂しく思う今日
この頃です。

ちなみに、新聞の集金が遅れるとペナルティーがあって集金手当てが
5%ほどカットされます。達成率の問題もありますが、遅れて払うお客さん
をたくさん受け持つと、集金手当てが加算されないこともあります。

なんでも仕事は大変ですが、これは本当にきつい仕事でした。
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'70年代の俺 [青春時代]

田舎の堤防 夕暮れ時に
ぼんやりベンチに すわるのか・・・

NSPの天野さんが今月1日に逝去されたそうです。
僕の青春時代の思い出の一つが、この唄でした。
淡い初恋に胸を焦がし、逢いたいなぁと夕暮れ時に
片思いの彼女を想う。

最近、よく集まっている仲間は、みんな50歳以上で
やっぱり、歌うのもフォークソング。

一つ下の宮ちゃんは吉田拓郎さんの唄が上手。
リンちゃんは、シグナルの「二十歳のめぐり合い」
コウちゃんは、アリスが大好き。

カラオケが始まると、もうそこはフォークジャンボリー。
今日のニュースでは、また、拓郎が倒れたとか?
僕達を惹きつけた世代は、もう還暦ですから仕方ない。

で、どこまでも明日が見えなかった、あの頃。
元気をくれましたね。もし、70年代が青春でなかったら
どうなのでしょうか?

もちろん、今でもコブクロや絢香さんなど良い曲を提供する
ミュージシャンは多いのだけれど。本当に僕は良い時代を
生きたように思います。

NHKのSONGSで、アリスが出てしました。スタジオライブ
みたいな感じで、集まった人たちもかなりの年配でした。
でも、とても楽しそう。

1979年冬。東品川のアパートは狭くて、暗い部屋だった。
当時二つも年上の女性と付き合っていた僕は、夜中に
電車に乗って訪ねたものでした。

ある日、その部屋で一人でへたくそな詩を書いていたら
転寝してしまい、気がついたら彼女は何故かプンプンしていた。
なんででしょうかね?

友達も言っていたのだけれど、幸せな時ほど、暗い詩や物語が
書けてしまう。悲しい時ほど楽しい言葉が頭に浮かぶもので、
「朝の光に目を覚ますと、一人の私なんて」詩が出来ちゃうわけ。

それをどう誤解したのか別れ話になってしまい散々でした。
本当に、作り話と現実が分からないんだよね。
そんな人でした。

結局、ダメになっちゃうんだけれど、人に読まれないように
今度は書こうなんて思ったな。こんな内容も、嫁にすれば
面白くないんだろうなぁ・・・。

まだ、何も見えなくて自分は何に成るのかも分からない日々。
遠くで汽笛は聞こえなかった。品川の車庫のガタピシャという
音だけが聞こえたあの頃でした。

けど、できるなら光の道を駆け抜け、逢ってみたい人はいますね。
それは、自分だったりもするけれど・・・。

天野 滋さんのご冥福を祈ります。
タグ:あの頃の俺
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