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休み明けで [仕事]

一日半ぶりの仕事は忙しかった。
県に申請した新規事業所の書類の訂正・・・FAX送信。
採用面接2件・・・訪問とデイサービスの人を一人ずつ。
緊急入院の対応・・・夕方、他のデイから電話あり、担当利用者が心臓発作で入院。
電話での確認2件・・・通院予定の確認と入所希望の家族への連絡。
広告チラシの原案作成・・・明日には、広告屋と商談。
ついでに、税金を納入、これは個人的な用事。もひとつ、ついでに、銀行振り込み。
帰りは、次兄の家によって葬式のお返しを受け取る。

やっぱり、一日以上留守にすると何だか、連絡票ばかりだよ、机の上は。
入力中に、デスプレイの上段部分が少し薄暗くなったよ。このデスクトップも寿命かな。
まだ、使えるので壊れるまでは使わなくちゃならない。

あぁ、少し見づらい。
ところで、思い出日記の続きを書こう。
昨日、スライドを下の方に入れたけど、今日はその写真から一つ。
僕には、13歳年上の兄がいるが、水前寺清子さんなんかが同世代の
スターだった。レコードジャケットに映っている彼女は23歳くらいかな?

三百六十五歩のマーチは、1969年春の甲子園の行進曲になった。
「ありがとう」では、国民的アイドルと言うか国民的人気者になった。
山岡久乃さんとの親子の芝居は楽しかった。今でもCSやケーブルTV
で、元気な姿を見れる。紅白の司会も多くやっていたっけ。

彼女は知る人ぞ知る、深い福祉の心を持つ人である。九ちゃんとも親交があった。
現在、地元熊本にケアハウス「清水庵」を建てて、施設長をしておられる。
ご両親を看取ったことや特にお母様が認知症になられて、壮絶な介護を経験
されたことが、今の彼女の生き方になったと僕は思う。尊敬しています。

昭和44年、春の選抜甲子園大会の入場行進曲。実は、昭和34年の「上を向いて歩こう」
が戦後初めて歌謡曲で行進曲になった。特に前年のヒット曲を採用する元になっている。
だから、節目の10年目がチータなのは、何か因縁を感じる。

10歳の僕は、そんなことはよく分からなかったけど、兄がチータのサイン入りの
小さなテーブルを持っていたことを強く覚えている。
たぶん、誰か違う人が書いたんだろうけどね。

兄は、その頃はアパートに住んでいて、なんと僕達が今、デイサービスをしている
近所の富田町にいたのだ。その辺りの人は、隣町の「貝地」を茨城弁で「かいじ」と発音していた。
そんなことから、施設名を考える時に僕は「かいじ」を選んだ。正しくは「かいち」だけど。

人生は、いろんなことが重なって成り立っていると言うか、因縁や成るべくして成ることは多いね。
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