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ALWAYS続・三丁目の夕日を観て [少年時代]

エピソード1 誕生
昭和34年3月2日 
「まだかなー?ねぇ、おばあちゃん」「いったい、どっちかなー?」
赤ちゃんが生まれる前、4歳の少年は祖母に尋ねていた。
今度、生まれてくる子供が、男でも女でもどっちでも良かった。

俺はお兄ちゃんになる。母や祖母に、「お兄ちゃんになるんだからね。しっかりしなさい」
って何度も言われてる。だけど、お兄ちゃんになるのがどんなことかさっぱり分からない。
とにかく、なんだか、今日は落ち着かない。

隣のトシ坊と遊んでいても、家の方が気になる。朝から、産婆さんが来てお湯を沸かせ
とか、うるさいから外で遊んでろとか、大人たちも興奮している。
まだ、寒さの残るこんな日に生まれてくるのは、可愛そうだとか思った。

午後3時、赤ちゃんは生まれた。ギャーギャー泣いてる。嬉しくて嬉しくて、隣近所に
「生まれたー!生まれたー!」「男だ、弟だー」と大声で触れ回った。
なんだか分かんないけど、涙が出てくる。やった、俺はお兄ちゃんだ。

真っ赤な顔してる。くしゃくしゃな顔してる。手が小さい。足も小さい。
お産婆さんが、「兄ちゃんより、随分とちっこい子供だ」って言ってた。
俺は、ずっと母ちゃんと赤ん坊を見ていた。

俺には、いつまでもお前はかわいい弟だよ。次兄は、最近酔っ払うと必ずそう言う。
手を握り締めて。
4つも離れていると、子供でも随分と違うように思っているらしい。
僕には、まあ、少し迷惑な話でもあり、嬉しくもある。初めて聞いた時は涙涙・・・。

前にも書いたけれど、父親が家を出ていくのは、この7ヶ月後。
家族は、0歳の僕と長兄と次兄と母と祖父と祖母。
おじいちゃんは、もう70を過ぎていた。おばあさんは64かな?
母は35歳。ちょっと高齢出産だったな。

中学生だった長兄は、僕のお父さんとはそりが合わなかったらしい。
次兄も顔は覚えてるが、好きじゃなかったらしい。
そんな感じの中で、僕は末っ子だったので、みんなに可愛がれて育った。

貧乏だったけれど、みんなで力を合わせて生きた時代だった。
続三丁目の夕日は、そんな、昭和34年が舞台。
戦後の傷跡も癒えて、もはや戦後ではないと言われ、皇太子がご成婚し
その後の、高度経済成長に向かう頃の日本。

4つ違いの兄弟は、いろんな悪さをしながら、周囲の人たちに暖かく見守られ
成長していく。
かつては、近所にあった人情も風情も今は・・・。
なんで、子供の頃ってあんなにゆっくり時間が過ぎたのかなー?

近頃は、なんともスピードのある時代で、あっと言う間に過ぎていく。
大人になっただけじゃないと思うのは私だけ?
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ポッキー [少年時代]

昭和44年にそのお菓子は発売されました。独特の形とチョコレート
の甘さが堪りません。私は、お酒も少し頂きますが、甘いものも
大好きです。

子供の頃、板チョコやチョコパンの中身、コロネも大好きだった。
そんな中に、突然に奴はやってきた。「ポッキーチョコレート」
ポッキと折れるからかな?斬新でした。

森永も昭和46年に「小枝チョコレート」を出しました。これも当時としては
革命的なお菓子でした。僕が子供の頃には、各社が競って新商品を
作っていました。

その頃、クレイジーキャッツが活躍していた時代で、僕は夢の中で企業スパイ
になって、商品開発に懸命に働くシーンを見ました。
何度となく、その物語は繰り返されて、一つのストーリーになっていました。
僕は、植木等さんが演じる、ちょっと二枚目半の熱血社員。

ライバルは、谷啓さんの演じる、少し間抜けな真面目社員。底抜けに明るい
内容で、いつか、大人になったらバリバリ働いて、末は社長になる・・・なんて。
本当は、映画の影響が強く残って夢にまで出てきたのでしょう。

その時の、商品が「ポッキー」と「小枝」なんだな。オンタイムの子供の時は
少し高価な食べ物で、きっと、友達の誕生会にお呼ばれした時にしか、
頂いてはいません。

昨日の夜中に、突然にそいつらを食べたくなって、コンビニに行きました。
夏にチョコレートはあまり食べないのだけれど、口の周りや手に付くからね。
でも、なんか違うな?あの頃は、もっと素朴な味だったように思う。

あっ、そうだ、初めてコーラを飲んだことも印象的でした。きっと、昨日は
コーラをつけなかったからおかしな感じになったのかな?
とにかく、醤油みたいな黒い液体は、子供の舌には衝撃的でした。
炭酸は三ツ矢サイダーと米屋さんのプラッシーに決まっていたのだから。

ところで、ドクターペッパーも変わった飲み物ですが、皆さんはどんな思いが
ありますか?僕は絶対に「薬臭い」と思うのだけれど・・・。

夏祭り [少年時代]

もうすぐ、楽しい夏休みだ。関東地方の子供達は40日くらいの
長い休みがある。大人になると、あまり長い休みはないので
子供達が羨ましく思うこともある。だけど

今の子供達は忙しいので僕達のころとは、比べ物にならないので
あまり、楽しくはないかもしれないけれど・・・。

7月の第3土日が、僕の町のお祭りだった。6月の下旬から当番の
家の納屋や物置に仕舞われたそれを、僕達は金や銀のペンキと白
と赤のペンキで、塗りなおす。

屋根は黒、真っ黒。鳳凰の乗る台座は金。胴体部分は晒しを巻いて、
朱色の鳥居に、銀の扉。紅白の布で鉢巻のように、担ぐ棒まで締める。
上町のお御輿は、それは立派でとても重かった。屋根の先端に鈴を
つけると、チャリンチャリンと鳴る。

祇園の夜、初日の夜にお神輿は担ぐ。
だいたい、10人から15人の小学校4年生から中学校3年生までの子供
達が、担いで町の家々を練り歩く。小学3年生から下の子供達は、それ
ぞれの家でくれるご祝儀を集める。

全部で5万円くらいにはなったと思う。中学校3年生の親分が、みんなの
働きに応じて分配する。中学生は1万円から5千円、小学生は5,6年生
で3千円、4年生は2千円・・・。小学校1年生でも500円はもらえた。

中学3年生が、僕の学年では一人だったので、その前の年から神輿を保管
するのも、お祭りの後にお金の分配も一人でやらなければなかった夏は、
昭和48年。

僕の下の学年には二人いたのだけれど、その下は全部、一学年に一人
ぐらいで、お神輿を担ぐのにも苦労した。女子は入れないしね。
高校生は手伝えない。大人の人は手を出してはダメなんだ。

そんな社会勉強の機会も、今は大人たちが入ってめちゃくちゃだ。
お金は、全員均等に分ける。女子も仲間に入れる。重い神輿は担げない
ので、神社に飾って張子の軽いのを手に持って歩く。

ダメだってそれじゃ。神輿は肩で担ぐの、次の日ヒリヒリするのがいいんだから。
働きに応じた分配もなくちゃ、面白くないよ。
でも、今は子供が少ないから仕方ないのかなー?

上町のお神輿、上の兄達の時代に宮大工の人に頼んで作って貰ったんだって。
この前、兄が自慢げに話していた。その時の代金は子供達が出し合ったらしい。
宮大工のおじさんは、そんな金はいらないと言って、酒を買って来させたとか。

子供達が代々担いだ立派なお神輿は、今も千手観音の隣にあるらしい。
タグ:お神輿

和田アキ子物語 [少年時代]

フジテレビでアッコのドラマを見た。昭和47年に、またまた、感動した。

あの鐘を鳴らすのはあなた
歌 和田アキ子
作詩 阿久 悠  作曲 森田公一
 
1 あなたに逢えてよかった
  あなたには 希望の匂いがする
  つまずいて 傷ついて 泣き叫んでも
  さわやかな 希望の匂いがする

  町は今 眠りの中
  あの鐘を 鳴らすのは あなた
  人はみな 悩みの中
  あの鐘を 鳴らすのは あなた

2 あなたに逢えてよかった
  愛しあう 心が戻って来る
  やさしさや いたわりや ふれあう事を
  信じたい心が 戻って来る

  町は今 砂漠の中
  あの鐘を 鳴らすのは あなた
  人はみな 孤独の中
  あの鐘を 鳴らすのは あなた
 
  町は今 眠りの中
  あの鐘を 鳴らすのは あなた
  人はみな 悩みの中
  あの鐘を 鳴らすのは あなた 

とても、スケールの大きな歌ですね。この年、僕は中学2年生だった。
今までも、何度も中学生時代の思い出を書いてきたけど、この歌では
やはり、あのレコ大の最優秀歌唱賞を取った場面が印象的だ。

頬を伝う黒い涙と懸命に歌うアッコが輝いていた。
堀さんは、すごい人ですね。当時、ホリプロは小さな会社で、たぶん
年間の売り上げが3億くらいだったかな?

チェーンストア業界のカリスマ的指導者の渥美俊一さんのペガサス
クラブの勉強会で、堀威夫さんの紹介をされたのは、27歳の春だった。
音楽業界では、一つのプロダクションが株式を公開するなんてのは
考えられないことだった。

その頃には300億くらいの営業成績は出していたと思うが、記憶が
はっきりしないので、後で調べよう。とにかく、すごい人です。

大女で芸能界で成功したためしが無いとされていたジンクスを破った
だけでも、すごいことだけどね。
今度、「5年目のハイヒール」も読んでみよう。

僕達が子供だった頃は、決まって12月31日はレコ大を見て、紅白を見る。
正月明けの話題は、決まって「今年のレコ大はって」言って、「馬鹿去年だよ」
って返されるのが、オチでした。

1億人の人たちが、だいたい同じ方向を見ていた時代であったね。
今みたいに、情報が溢れていないし、趣味趣向も多岐に渡っていたわけでは
ないので、TVのコマーシャルメッセージも「ガスサ ママネダ」なんてパロったり。

なんか、心が暖かくなるのは僕だけかな?
ちなみに、昭和47年のレコード大賞は、「喝采」ちあきなおみさんだった。
駅の情景や大人の恋愛、黒い縁取り、それでも私は歌う歌姫。

感動の名曲が、たくさんあった幸せな時間だった。

鉄人28号 [少年時代]

10時半から夜のウォーキング。7333歩は上出来でしょう。
お風呂に入って、寝ようとしたけど今晩も独りなのでブログを書こう。
鉄人の話。

子供の頃、鉄人と言えば、「ルー・テーズ」原爆固め。
マンガの鉄人28号。そして、衣笠選手(広島東洋カープ)
どうも、鉄人という言葉がつくものが多い。

だけど、28号だけは本当に鉄の人と言うわけだ。正太郎少年の
リモコンは憧れだった。白黒の足のついてる東芝のテレビが、我が家に
やってきたのは、昭和39年そうオリンピックの年だ。

チャンネルはダイヤル式。いつも、僕はチャンネル当番だった。
兄が見たいテレビ局の番号を言うと僕は回す。だけど、そんなに
頻繁には変えない、今みたいには。

だいたい、子供の見るテレビは決まっていたし、夜の8時には寝てたから。
「良い子は8時に寝ましょう」っておばあちゃんが決めてた。
今、思うと大人の時間が在ったんだな。「大人の漫画」って何だ?
夢で会いましょうやアメリカの映画など、大人は見てたんだな、きっと。

子供の頃には、沢山の漫画がテレビで放映された。「ポパイ劇場」は、たしか
日曜日の夜にやっていた。鉄人28号はオンタイムでは見ていないから、再放送
で見たんだな。ウルトラマンやパーマンもやはり、その頃の日曜日だった。

巨人の星は土曜日の夜だった。たった一球のボールを投げるのに1週間もかかった。
ハリスの旋風やガボテン島も楽しい内容だった。ガボテン島のまねをして、林の中に
秘密基地を作ったり、万年筆を持つと必ず、ビッグXのアキラ君のまねをした。

先日の伊香保で、鉄人28号の缶バツジを射的で取った。子供の頃が蘇るね。
ビー玉にメンコ、おはじきにベーゴマ。空き缶いっぱいに兄貴と集めたベーゴマは
どこにしまったっけかな?

メンコには当時の漫画の主人公や長島さんや王さんの似顔絵が描いてあった。
裏に蝋燭のロウを垂らして、重くすることを思いついたのはいったい誰だったのかな?
ベーゴマもヤスリで削って、重心を低くすると負けないことに気づいたのは誰かな?

三角ベースでバントしかできないちびっ子の僕とやけに雨合羽で作るベーゴマの床
が上手な兄貴の思い出は次の機会にしよう。

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