もうお彼岸でした [家族]
平成15年4月25日が、実の父の命日です。もう10年にもなるのですね。
私が生まれてすぐに、両親は協議離婚。当時では、非常に珍しくまず
近所で同じ境遇の人はいませんでした。
ただ、太平洋戦争での片親の家は、結構ありました。病気で親を亡くしたり
事故でそうなるケースはありました。しかし、離婚となると周囲の目は違い
大人達にも偏見といわれなきいじめを感じることもありました。
それから、44年ですよ。一度も生きている父親の姿も声も聞いたこともなく、
悪いうわさばかり耳に入れられ育ち、己が父親になれないと分かったころとも
相俟って、とても複雑な気持ちでした。訃報を聞かされたときには。
父親は隣の隣の町に住んでいたことは分かっていました。町の担当の方から
生活保護を受けていたので、その後処理があると電話があって次兄と町役場
をたずねました。
当時、私は介護関係の施設で働き、兄は広域の消防署で働いていました。
担当の方は、片親でも立派に育つんだ、こんなドラマのようなこともあるんだ
と感心されていました。
当時の社会情勢からして、やくざな社会に住んでいてもおかしくない環境でしたから
先に書いたように、偏見と嫌がらせの中で生活していましたから。
しかし、祖父や祖母の働きや母の頑張る姿をみて育ちましたから、少しはやさしい
心を持って大人になれたように思います。
感謝感謝のお彼岸でした。それでも、今日はまだけっこう暑かった。
私が生まれてすぐに、両親は協議離婚。当時では、非常に珍しくまず
近所で同じ境遇の人はいませんでした。
ただ、太平洋戦争での片親の家は、結構ありました。病気で親を亡くしたり
事故でそうなるケースはありました。しかし、離婚となると周囲の目は違い
大人達にも偏見といわれなきいじめを感じることもありました。
それから、44年ですよ。一度も生きている父親の姿も声も聞いたこともなく、
悪いうわさばかり耳に入れられ育ち、己が父親になれないと分かったころとも
相俟って、とても複雑な気持ちでした。訃報を聞かされたときには。
父親は隣の隣の町に住んでいたことは分かっていました。町の担当の方から
生活保護を受けていたので、その後処理があると電話があって次兄と町役場
をたずねました。
当時、私は介護関係の施設で働き、兄は広域の消防署で働いていました。
担当の方は、片親でも立派に育つんだ、こんなドラマのようなこともあるんだ
と感心されていました。
当時の社会情勢からして、やくざな社会に住んでいてもおかしくない環境でしたから
先に書いたように、偏見と嫌がらせの中で生活していましたから。
しかし、祖父や祖母の働きや母の頑張る姿をみて育ちましたから、少しはやさしい
心を持って大人になれたように思います。
感謝感謝のお彼岸でした。それでも、今日はまだけっこう暑かった。