盆帰り [家族]
1976年 中村 雅俊さんがリリースした名曲です。
この季節、思い出します。作詞・作曲は小椋 径さん。
高校生には、少し難しかった。
昭和54年 僕は二十歳になっていた。3年前に流行ったこの曲
が、胸に迫った夏。ベッドに横たわっていた。
この年は、夏に交通事故。冬に虫垂炎。死にかけた。
よほど、あちらの世にはまだ呼ばれないのか、生きて生還。
翌年の春には、田舎で車の教習所に通った。
夏の盆には、やはり、この歌を思い出した。
大学3年の単位は、そんなんでほとんど取れずに、1科目4単位のみ
取得。それでも4年生になれた。奇跡的だった。
取りきれないほどの履修届けを出したのは、次の年の4月。
本当は、友達と行くはずだったアメリカ留学も病気でいけなくなり、
ぎりぎりの生活での120単位以上の取得は本当に大変でした。
教育実習を残しての卒業で、秋に本当に教壇に立った時は、
「レッツ ビギン」どころじゃなかった。
あれこれと、纏めて思い出す夏の夜です。
今年は、特に暑くてついに、この部屋にもクーラーが入りました。
しかし、ブログ更新はなかなかできなくて、家内に尻を叩かれての
今日の更新。やっぱり、暑いよ。
この季節、思い出します。作詞・作曲は小椋 径さん。
高校生には、少し難しかった。
昭和54年 僕は二十歳になっていた。3年前に流行ったこの曲
が、胸に迫った夏。ベッドに横たわっていた。
この年は、夏に交通事故。冬に虫垂炎。死にかけた。
よほど、あちらの世にはまだ呼ばれないのか、生きて生還。
翌年の春には、田舎で車の教習所に通った。
夏の盆には、やはり、この歌を思い出した。
大学3年の単位は、そんなんでほとんど取れずに、1科目4単位のみ
取得。それでも4年生になれた。奇跡的だった。
取りきれないほどの履修届けを出したのは、次の年の4月。
本当は、友達と行くはずだったアメリカ留学も病気でいけなくなり、
ぎりぎりの生活での120単位以上の取得は本当に大変でした。
教育実習を残しての卒業で、秋に本当に教壇に立った時は、
「レッツ ビギン」どころじゃなかった。
あれこれと、纏めて思い出す夏の夜です。
今年は、特に暑くてついに、この部屋にもクーラーが入りました。
しかし、ブログ更新はなかなかできなくて、家内に尻を叩かれての
今日の更新。やっぱり、暑いよ。