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忠臣蔵の季節 [歴史]

時は、元禄15年師走の14日。本所松坂町の吉良邸の前には、討ち入りの
47士が揃い立った。映画や芝居では、雪の降る明け方というか深更であるが
実際には、寒い季節風が吹く今で言う1月の末だった。

表門隊は、大石蔵助良雄を大将に以下23名、裏門には大石が嫡男、主税を
大将として24士。表からは9名、裏から10名が突入し、大将と残りは見張り。
この、戦闘方法は後世、新撰組が京都池田屋に突入する時に再び使われた。

当時の武士達も、1対1での闘争は慣れていない。何しろ戦国の時代からは
100年も経っている。刀剣や槍での実戦の経験はほとんど無い。
堀部安兵衛だけが、高田の馬場での決闘で実戦経験があっただけだ。

だから、4人1組か5人1組で、一人の相手を倒していく方法を取った。確実に
勝てる方法を採用したわけだ。しかし、討ち入りは簡単には運べなかった。
呉服橋にあった屋敷を変える時に、迷路のような構造を用いたので、敵の上野介
の寝所までは、なかなかたどりつかない。

明け方まで、探索し敵が見つからない場合は、その場で切腹なんてこともあり、
最後は、時間との戦いになった。炭小屋に隠れていた上野介を見つけて間十次郎
が槍で突き、武林唯七が切り捨てた。

小柄な老人が、主君の仇であるが、誰も顔を見たことも無い。唯一、額と背中の傷跡
で、確認する。主君の遺恨をここに晴らした47士は、感極まったことであろう。
だが、本当に300年も前に、こんな事件があったのか疑問視する向きもある。

元を質せば、短気な性格の浅野内匠頭が吉良の苛めに耐えかねて、こともあろうに
殿中にて刃傷事件を起こしたのがいけない。もっと、冷静に行動していればと歴史に
もしもは無いんだけれど。

そもそも、勅使饗応役は、浅野さんは今回2度目です。17年前にもできたのだから
教える方も、できるでしょって気になる。だから、一方的に吉良を悪くするものどうかな?
300年以上も悪役って可愛そうだ。三州三島の領地では良い殿様だったとか。

また、米沢藩上杉家には、実子綱憲を養子に出したり、高家の筆頭で仕事もできる61歳。
吉良さんばかりを悪者にして、得した人もいたのかな。とりあえず、事件後、世子義周は
領地没収で改易。江戸庶民の声が聞こえたのかな?

なんせ、当時の将軍は悪名高い、5代徳川綱吉。あの、生類憐れみの令を頻発し母親の
桂昌院に逆らえなかったマザコンですから、仕方ない。
いや、将軍は馬鹿ではなかったけれど、やってることがねぇ。

とにかく、事件後、方々の学者(林大学頭や荻生徂徠)に意見を聞いて、結局は輪王寺の
門主に諭されて、46士を切腹に処する。確かに、忠臣ではあるが後年それがアダになる
こともあるので、これはこれで良かった。(寺坂信行は陪臣のため事件後脱盟)

綱吉が亡くなり、家宣が将軍になり恩赦で義士の子弟は放免となり、他家に仕官できる
者もあり、良かったこともある。浅野大学は旗本に復してもいる。
しかし、三州吉良家は義周が病死すると、そのまま廃絶となった。

まあ、この季節はそんな細かい事情は知らないでも、日本人の心ですから劇もドラマ
も楽しめばよいわけです。 

忠臣蔵 完。
タグ:赤穂事件
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エリザベート

>殿中にて刃傷事件を起こしたのがいけない
私もこの考え方に賛成です。でも、日本人ってどこか違うところで同情するんですよね^^
by エリザベート (2008-12-06 20:37) 

omutu

エリザベートさん ご訪問&ナイス&コメントありがとうございます。
そうですね。ただ、今の国の責任者も右往左往する様はなんとなく、
当時の将軍家や幕府高官たちにもあるような感じで、人間はあまり
進歩していないように思います。
by omutu (2008-12-07 00:46) 

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